こんにちは。

青年海外協力隊として2年間モザンビークで活動中です!

2010年11月18日木曜日

ある生徒の、進級の風景。

今日はモザンビークの全国進級試験日。
対象は全小学校の5年生と7年生。
この試験に落ちると、留年というシビアな試験である。
(2005年の統計では10%近い生徒が落第している)

そんな試験の日に、めちゃくちゃ嬉しいことがあった。
孤児院の一人の女の子、マイリーンが進級試験を免除になったのだ。
進級生徒は原則、全生徒が対象なのだけれど、
普段の成績が良い児童は、この試験を免除されるのである。
彼女は、学年でも数人しかいない免除枠に選ばれたのだ。

いつもの登校と変わらない様子で試験に出掛けた彼女は、
飛ぶようにして帰って来た。
食事中の僕のところに入ってきて、、
見たこともない笑顔で伝えてくれた。
「私、試験免除だったよ!」

嬉しくて、こっちまでちょっと泣きそうになってしまった。
そんな僕をみて、彼女は笑っていた。
そのあと、お姉ちゃんにもすぐに伝えに行っていた。
見るからに人がいい、いつもニコニコしているお姉ちゃんでさえ、
今までに見たことのないような笑顔に変わった。

***
マイリーンはもともと愛想のいい子ではない。
「14歳の女の子」っていう年のせいもあるんだろう。
出会ってからしばらくは笑った表情を見たことがなかったぐらいだ。
大人に何か命令されたときは、淡々とこなす。抵抗もしない。
抵抗が、結局時間の無駄だと割り切っているようだった。
孤児院を訪れた僕の友人が、唯一「あの子は態度が良くないね。」
と言っていたのは、紛れもなく彼女のことである。




彼女と話すようになったのは、
彼女が学校の宿題を持ってくるようになってからだ。
自分から話しかけてくることがない子だったので、
宿題をきっかけにして少しでもコミュニケーションがとれることはラッキーだった。
どんなに褒めても、表情を緩ませることはなかったけれど。
この子とは時間がかかるだろうなーと直感的に思ってから、
ゆっくり様子を見ることにしていた。

***

そんな彼女がいろんなことを素直に話してくれるようになったのは、ここ最近のこと。
彼女が初めて心を開いてくれたと思ってくれた日のことは今でもよく覚えている。

学校から宿題が返却されたときに、その答案を僕のところに持ってきて、
「ちょっと聞いてよ、本当は満点なのに、お前がこんなにできるはずがないって言われて、50点にされたんだけど!!」と怒りながら僕のところに来た。
プラスの感情ではなかったけど、
それでも彼女の「気持ち」を聞いたのは初めてだった。

「それは悔しかったなぁーー。」
「ね、ひどいでしょ!」なんて話しながら、
彼女と同じ気持ちになれたことがとても嬉しかった。

***

今回の試験免除は彼女に、
大きな喜びと自信を与えただろう。

自信は武器だ。
特に周りから尊重されず、蔑まれるときには、
自分で自分を信じてあげることが、前に踏み出す力になる。

今日得た自信を武器に、周りからの汚い攻撃を振り払って、
自分の道を進んで欲しい。

2010年11月7日日曜日

自分との勝負。

最近、自分の気持ちの中に変化が出てきた。
まわりに向いていた意識が、今週は自分に向くようになった。

**

孤児院やモザンビークを取り巻く問題は尽きない。
今週1週間だけでも、2人の子どもが学校に行かずに遊んでいた罰として手を縛り付けられて倉庫に閉じ込められ、1週間のうち2日は朝食がなく、夕食はおかずがなく、一人の子どもは脱走を図り、3名が病気にかかり、飲食に使う井戸水にはおたまじゃくしが生まれたので毎回鍋ですくい取っては除去の作業が続き、金曜日には僕を除くすべての職員が欠勤。学校に遅刻した生徒は先生に60円を払わなければ成績をゼロにすると脅されて返ってきた。

僕がここの孤児院の校長先生だったら、モザンビーク人だったら、もっと経験があったら、立場があったら、何かを変えることはもっと易しかっただろう。
しかし施設としても、海外から来た、24歳の、言葉もたどたどしく、いつまでいるか分からない「ボランティア」に、組織の大事な部分を任せることはできない。基本的にボランティアは、「あったほうがいいけれども、なくても支障なく組織は回っていく」という立場に配属される。特に青年海外協力隊の場合は、ボランティアを要請しても適任者が見つかるかわからないし、要請から赴任までに平均して1年近い時間がかかるという。良くも悪くも、(少なくとも初めは)端っこに置かれる。


だから、たくさんの問題に直面しながら、何もできないことに無力感やじれったさを常に感じる。
より「中心」にいる同僚をどうしたら変えられるだろうと考えたこともたくさんあった。
そのことに悩んだり、無力感を感じることはきっと2年間続くと思う。

でも、そんなことに悩む前に、自分自身の課題もたくさんあることも忘れちゃいけない・・・。

***
ここでの自分のJICAの要請内容は子どもたちに基礎的な学習能力を身につけさせ、さらに孤児院での生活が楽しくなるようなアクティビティを提供すること。
病気や進路、生命に関わる、孤児院で起こるほかの問題に比べて、その重要性が低くても関係ない。自分の役割がそこにあることに変わりはないのだ。

この3ヶ月、学習状況や孤児院の生活環境に変化はあったと思う。
だけど、理想とは程遠い。
一緒に勉強すると言ってもすぐに集中力が切れて部屋を出て行く子がいるわ、まったく教えたことが定着しないわ、ノートを盗もうとするわ、他の子のノートを破るわ、みんなで遊ぼうとしても仲間はずれが出るわ、とてもじゃないけど、最低限の環境さえ作れていない。
毎日、新しい方法や仕組みを考えていく。それらは大体空振りする。
模造紙を買って、教材を準備していったときには、僕の見ていない間に子どもがそれを破り、おもちゃにして使われていた。
たまに上手くいったと感じる2秒ぐらいの「瞬間」があるだけで、あとはこれも失敗、あれも駄目だった、あそこはこうするべきだった、そんなことを思い返しては一日が終わる。

でも、そうした挑戦を続けられることはとっても恵まれているんだと思う。
そんななかで、もっと挑戦して、失敗して、それでも挑戦しなきゃと思い立たせてくれる二人の言葉。

***

一人目は24歳にしてアメリカやヨーロッパで活躍するジャズピアニスト、上原ひろみさんの言葉。

「たとえばうまく弾けない日が3ヶ月とか続いても、
原因が自分にある時点で、それは苦労でも挫折でもないですね。
戦地の子供とかは自分に原因があるわけでもないでしょ?
それなのに自分は曲がうまく弾けないからスランプだとか・・・。

そういうのは...
とにかくできるまでやれってことでしょ。笑」

もう一つは、ノーベル化学賞を受賞した下村脩さんの言葉。

「やりたいことをやって行き詰ったらどうするか」と、聞かれたこともある。

この質問の真意が私にはわからない。
すぐにあきらめたり、ほかのことに移ってしまったりするのは、
それはそのことがほんとうにやりたかったことにはならなかったのではないだろうか。

研究者として、私は実験がうまいとも言われる。
「神の手を持つ」などと神格化するようなことを言われたこともある。
ところが実際のところは不器用で、実験は上手ではない。

よく失敗する。
ただ、簡単にはあきらめない。
うまくいかなかったら考え直して、別のやり方を試みている。
だめだったらもう一度、それを何度も繰り返す。それだけだ。
あらかじめ、予定されている成功などはないのだ。

日本の若者にいいたい。

がんばれ、がんばれ。

物事を簡単にあきらめては駄目だ。」


子どものせいにしたり、協力してくれない同僚のせいにした時点で全てが止まる。
他人の領域に関心は持ちつつも、行動するのは自分の領域から。
毎日新しいことに挑戦できて、すぐにそのフィードバックが帰ってくる、失敗されても誰もクビにならない、そんな環境に心から感謝して、
何かと子どもやアフリカのせいにしがちな自分に喝をいれとこう!

2010年10月25日月曜日

子どもの強さに学ぶ。


Ginencioは2年生の男の子。両親を去年亡くし、親戚も引き取れる環境になかったので、車で3時間かけてこの孤児院まで送られてきた。
彼は孤児院のなかでも特にまじめな子で、学校に行くし、物は盗まず、ケンカは売らず(買うけど)、先生の言うことは聞くし、とにかく勉強が大好きで、僕が帰る時間になると「もっと勉強したいから帰っちゃだめ、先生!!」と言ってくれる子である。

ある日、孤児院に出勤した日のこと。
いつも学校に行っている彼が、学校の時間になっても孤児院にいる。
おかしいなと思って声をかけてみると、先生に「1年生のときの成績表を持ってきてない生徒は家に帰れ!」と怒鳴られて帰ってきたのだという。
そう、2年生で転校してきた彼は1年生の成績表を持ってないのである。
それはいかんと思い、一緒に孤児院の同僚である教育係の先生のところに話に行ってみることにした。(ちなみにこの先生はめちゃめちゃ怖いうえ、職務中に近所の居酒屋でよく休んでいる先生である。)

僕「Ginencioが 成績表を学校に持っていかなくちゃいけないと先生に言われたらしいんですけど。」
同僚「なに?成績表??そんなもの何のためにいるのよ?」
Ginencio少年「2年生の終わりにテストをするから、成績表が必要なんだって先生が言いました。」
同僚「そんなのおかしいわよ!テストがあるのは5年生と7年生だけ。あなたは関係ない。トモ、この子はまだ小さいから何もわかってないのよ。放っておきなさい。そもそも、この孤児院に入ってきたときに成績表なんて持ってきたの??持ってきてなんかないわよ。どこにそんなものあるというのよ?」
Ginencio少年「・・・。」
同僚「はい、もういいわね、外で遊びなさい。」
僕「・・・。」

ちょっと先生の態度はひどいように思えるかもしれないが、先生にも先生の理由がある。この孤児院の子どもたちはあまり学校に行きたがらない子が多い。やっぱり孤児院の子だということでいやな目に会うことも多いみたいなのだ。だから、子どもたちもいろんな言い訳をして、うそをついて、学校にいかない理由をつくる。子どもたちが学校を休むために何度も嘘をつくことに疲れている先生側からしたら、いちいちまじめに取り合っていたらキリがないのだと思う。
結局、その日は何もしてあげられなくて、残念ながら彼の勘違いだってことを祈るしかなかった。

***
翌日。
やっぱりGinencioは学校に行っていない。
さすがにおかしいと思って、でも孤児院では何もできそうにないので、学校までついていき、担任の先生と直接話すことにした。

授業時間のはずだったけど、先生は偉そうに椅子に座り、同僚と談笑していた。
ポルトガル語の不安はありながらも、成績表が本当に必要なのかを先生に聞いてみると、Ginencioが昨日話していたこととまったく同じ答えが返ってきた。
2年生もテストをやりたいから、やっぱり成績表が必要だと。
孤児院に入ってきたときに成績表までは持って来ていないので、どうにかならないかと担任の先生にお願いしたけれど、先生は「そんなこと知らないわよ。昔いた学校まで取りに行けばいいじゃない?あなたお金持ちだから車ぐらいあるでしょ?え、持ってないの??」と言ってきた。その横柄な態度にぶち切れる寸前だったけど、その先生の隣に座っていた男の先生が「こちらでなんとかします」と言ってくれたので形だけ感謝して、Ginencioと一緒に、そそくさとその場を去った。

***
帰り道、僕たちは無言で孤児院まで戻った。
彼が小さな歩幅で歩いて戻る様子を後ろから見ていると、あまりの現実の厳しさに心が痛み、涙が出そうになった。

小さい頃から、なんてつらい環境で生きていて、
それでもなんでこんなに強いんだろう・・・。


1年生のときに両親をなくした。

親戚に引き取りを拒否され、知らない町の知らない孤児院に入った。

学校の仲間も知らない子どもばかり、制服は与えられなかったか盗まれて、靴もなく、それでも勉強が好きで毎日学校に行っていた。

先生に言われたことを孤児院で頼んでも、誰もまじめに向き合ってくれない。
自分のせいじゃないのに、帰れと学校の先生に怒鳴られて、成績表を取りに行けなんて、無理なことがわかっているのに言われる。

それでも彼はきっと明日学校に行くのだろう。

また勉強がしたいって、僕に声をかけてくるんだろう。
僕が不機嫌な受け答えをしたり、勉強をするっていう約束を守れなかったときも、責めたり怒ったりしたことはない。
いつも、ノートに大きな丸をもらえることを楽しみに、問題を出してもらうのを待っている。



一緒に無言で帰るとき、なぜか自分の小学校時代を思い出した。

恥ずかしかった。

ちょっと友達に嫌なことをされただけで家族にあたったり、何かをさぼったり、何かのせいにしていた自分が恥ずかしかった。
嫌なことがあったときはそれをいつも言い訳にして、結局自分のために使っていた気がする。
いまでも、嫌なことがあるとすぐにほかの事にぶつけたり、逃げたりしてしまう。
彼には、嫌なことがあっても前に誠実に進んでいく力があるように見えた。
その強さを感じたときに、なぜかわからないけれど、すごく悲しくなって、涙が出てきた。

* **

帰ってから、同僚に何があったかを話した。彼は嘘をついていないことを伝えた。同僚は聞こえたような、聞こえなかったような態度だった。
同僚や先生の性格が悪い、なんてことで収まるような問題じゃない。それぞれに、それぞれの理由がある。
現状は、本当に、複雑に絡まりあっている。
せめて、子どもへの信頼を作りたいと思うけど、たった一つ、彼が嘘をついていなかったことを証明したところで、きっと何も変わらないだろう。

だれど、そうやって一つずつ糸をほどいていくことしか、今の自分にはできない。

いつになったらほどけるか、全く先が見えなくても・・・。

2010年10月21日木曜日

東大総長へのメッセージ

40度近い猛暑の中、厳しい現実に直面しつつも、何をすればいいのか、なかなか糸口が見つからず、辛抱の日が続いていたのですが、日本でお世話になっていた大学の先生から、とっても嬉しい連絡を頂きました。
先日、東大で行われた東大の濱田総長と、JICAの緒方理事長との対談にて、僕から送ったメッセージを取り上げてくださったそうです。
対談は大学とJICAの連携を記念したもので、タイトルは「~学生よ、世界に目を向け、世界に飛び出せ!~」。自分の卒業した大学と、いま所属している組織の対談であったので、お世話になっている先生から、「メッセージを送ってみたら」と言っていただいたことがきっかけです。
どこの大学もそうだとおもいますが、東京大学も国際化に力を入れており、国際化・多様化する世界でも活躍できる「タフ」な人材育成が、現在の総長が掲げるモットーです。
メッセージでは、大学在学中に培われたタフさがいかにアフリカでも大切かということを伝えたのですが、それは大げさでもお世辞でもなんでもなく、心底日々感じることです。
どんなに経験、技術、熱意があったとしても、それが相手に生かされるようになるには、絶望したくなるほどの相手との「距離」があり、それを乗り越えるコミュニケーションがどうしても必要だと思います。その能力がまだまだ自分には足りていないことは痛感しつつも、大学時代に昼夜を問わずに議論しまくっていた経験が大きな糧になったことは間違いありません。そうしたことが伝わればなと思っていました。
そして、こうして自分のような「奇異」な進路が、経験の蓄積や言論を通して「普通」になっていき、日本がさらに多様性に寛容な社会になっていくように、将来への希望もこめて。

(以下、総長に送ったメッセージです。)
***

結論から申し上げます。アフリカのモザンビークという国に来てから2ヶ月が経ちましたが、多くの場面で大学在学中に学んだ「タフ」さの重要性を痛感しています。

私は入学当初から国際協力に興味があり、教養学部で国際関係論などを学んだ後、経済学部に進学してからは開発経済を専攻するゼミで2年間勉強しました。
ゼミでは学生が主体となってフィールド調査のため途上国に訪れ、調査内容を中国や韓国の大学生向けに発表するなど、大変活発なゼミでした。
開発分野の研究や政策の重要性は感じつつも、先進国での研究では途上国の人が望む「開発」を考慮する難しさを感じ、
まずは現場で現地の人と「開発」について考え、直接対話しながら活動できる青年海外協力隊としてアフリカに赴任しました。
モザンビークでは公立の孤児院の教育担当者として、孤児に対する基礎教育の直接指導や孤児の生活改善のプログラムの立案を行っています。

濱田総長は平成21年度の入学式の式辞の中で、タフさについて以下のように述べておられました。
「ある知識を自分で納得するだけでなく、人に伝えること、人を納得させることには、一つの力が必要です。そして、コミュニケーションの相手というのは、自分と同じ価値観や人生観の人ではないことが、むしろ普通です。相手との差異を超えて、知識を伝え、受け取ることができる力、また、互いに論じ合うことができる力、それが「タフ」であるということです。」(一部表現短縮)

途上国の現場で活動をしていると、国際協力の舞台で活躍する人材というのは、まさにこの「タフさ」を身につけた人材なのではないかと感じます。
たとえば、私がモザンビークのストリートチルドレン(学校に行かず、道で洗車等をして生活している子ども)に対して教育の重要性を伝えようとするときのことです。
単に、「勉強をして学校を出れば、将来就く仕事の幅も広がるし、世界も広がるよ」という「知識」を伝えたところで彼らの行動は変わりません。
それは、彼らには彼らの理由もあるからです。
たとえば、「学校に行っても先生は来ない」「自分は親に宿題を教えてもらえないから、学校で馬鹿にされる。」「洗車の仕事は、やったら必ず報酬がある。」など。
そのため、彼らの持つ理由を聞いて整理し、そこで自分の考えていた「知識」の妥当性を再検討したうえで、彼らの目線に立ってもう一度自分のメッセージを伝える、そこまでしなければ知識が力を持つことはありません。
(相手が本当の理由を話してくれるためには「徳」にあたる人格性まで求められること、
また言語能力は全ての基盤であることは言うまでもありません。)
先の例で言えば、学校を卒業することの重要性よりも、たとえば文字の読み書きや簡単な計算ができることによって、彼らの日常生活がより公正で、豊かになることを伝える方が効果的でしょう。
途上国と一概に言っても、地域や村、そして個人によって価値観や知識のレベルは全く違うため、自分の知識とコミュニケーション力を「総動員」し、常に相手に伝わることを意識し続けなければ、その人や地域が変わることもないのです。
まさに「タフなコミュニケーション」が求められていることを、日々実感しています。

そうしたタフさを身につけるには、大学時代のトレーニングは貴重なものでした。
・同じ知識を学ぶときにも、一人で学ぶのではなく、留学生や友人とともに議論しながら学ぶこと
・自分の考えを発表し、それを先生や仲間から批判してもらうこと、その批判に自分が答えること
・全く違う専攻の友人から違う視点で意見をもらい、こちらの意見も相手にわかるように伝えること
こうした経験の全てが今の自分の役に立っていると思います。

以上の経験から、今回の対談や今後のイベントを通じて「タフさ」の重要性がより多くの学生に認識され、
国際化やバリアフリーを通じて、ますます多様な環境が整備されることは、
卒業生が海外で活躍することにも直結すると強く信じています。
卒業生としてそのような環境で勉強が出来たことに心から感謝するとともに、
今後の益々の発展をお祈り申し上げます。

2010年10月7日木曜日

葛藤から希望へ

 毎日の活動に、いつも大きな葛藤が付きまとっていた。


「モザンビークでは子どもには命令し、管理するのが当たり前だ」けれど、
「自分は子どもに近い距離で接したいし、子どももそれを望んでいる」のだ。

モザンビークでは、基本的に子どもは「労働力」である。家で作ったパンケーキみたいなのを路上で売ったり、畑仕事をしたり、料理や洗濯なんかは子どもの仕 事である。子どもは空いている時間に勝手に遊べばいいけれど、仕事の時間には仕事をしなければいけない。
この2ヶ月、僕の同僚が自発的に子どもと遊んでいるところは一度たりとも見たことがない。しかし彼女は自分の服をわざわざ孤児院に持ってきては、子どもに 洗濯させている(!)。
さらに、この孤児院では、子どもに対するイメージが最悪だ。
「あぁ、あの子はゴミよ。家から追い出されてきたんだから。」
とかは平気で言っている。子どものいうことなんて聞く必要はない。一緒に遊ぶ必要もない。子どものために働くなんてとんでもない、子どもが自分たちのため に働くのだ。

賛同はできないけど、否定するものでもない。
日本でテレビゲーム漬けになり、ろくに家事も手伝わない子を思い出すと、悩みは不覚なる。
自分がボランティアしていた小学校では子どもが定年退職したボランティアに白髪ジジイと叫んでいたけれど、こっちではそんなこと、あ り え な い。
それほど、大人は怖い。
そういう意味で、こっちのほうがよく「管理」されていることは間違いない。



だけど、自分は子供への管理を強化するためにわざわざ来たわけじゃない。
子どもが何かを達成して喜ぶ瞬間を一緒に味わうのが好きで来たんだし、
いろんな事情があって孤児院に住んでいる子どもたちのことだから、なるべく話を聞いてあげられる存在でいたい。
だからなるべく距離を近くして、自由にのびのび遊ばせてやりたいと思う。

でも、そういう「優しい」大人は、同僚からは「無能」な人と思われかねない。
子どもをコントロールできていないのだから。
日本ではこうだよとか説明しても、ふーん、である。
 
だから、すごい葛藤がある。
(子どもに厳しくありながら、彼らの意見も聞くような、理想的な先生になればいいのかもしれないけど、
やっぱり「子どもの意見を聞く」という価値観で、日本とモザンビークのぶつかりが出る。)

***子どもの表情から見る、大人への態度の変化***


(働き始めた日の女の子。大人の僕を怖がっていた。)


(最近、甘えが止まらなくなった彼女。笑)

****

だいたいのときはモザンビーク流に厳しく、だけど同僚が来ていない日には一緒に遊ぶなどして、すごくどっちつかずの感じで活動をしている。
こんな感じでいいのかな、同期の隊員によってはもっと自分の主張とかやり方をはっきり言ったり出してやっている人もいるみたいで、
自分には信念がないなとか悩むときもある。


そんなときだった。
いつもパワーを与えてくれるdaisukeのブログに、彼がインタビューを通じて聞いた、NorthWestCenterのCEO,Tomさんの言葉が 載っていた。
(詳しくはをhttp://www.daisuke344.com/archives/201010/pick-past-and-go-my-way /ご覧ください。このブログ、特に同年代のみんなにめっちゃオススメです。)
以下に引用させてもらいます。



まずね  自分の中の葛藤や矛盾は決してそれ自体、悪いものじゃないんだ
 
円を想像してごらん?
 
まず僕らは ある一つの点から生まれるんだ
 
ただし、そこから自分の中で矛盾や葛藤が起きて 二つに分かれてしまうとする
 
たとえば、いまのきみみたいに、 <認められたい自分> と <ひとの目なんて気にせず自分のやりたいことに積み重ねたい自分> だ
 
ただそれらの分かれてしまった二つのモノは 
まさに円をなぞるようにして上へ登っていって
最後には円を結ぶように 一つになる 一つの点にもどっていく
 
これと同じなんだ
ぼくも <お金を儲けたい自分> と <社会正義に貢献したい自分> この二つの葛藤と矛盾があった
 
でも最後にはこうやって二つは結びついたんだ
そしてどんなことでも必ず 結びつく 必ず一つにすることができるんだ
 
なぜならそれらの感情は 産まれた元は 一つの点からなのだから
 
だからどんな葛藤や自己矛盾がその瞬間にあっても
それは必ず結びつく、円を描いていくことができる
そしてその円を創っていくことこそが 人間としての成長なんだ
だからまずなによりも 矛盾や葛藤自体を 決して否定してはいけないんだよ」
 
 
(この「円」の考え方、じつは同期のヤナとニッシーは大学生のときから、自分の口で語っていたことも思い出した!)


daisukeはおぉーっとおもわずうなってしまったらしいけど、まさしく同感。

特に根拠があるわけじゃないんだろうけど、とても素敵な考え方だと思うし、心のなかの焦りを取り除いて、ゆとりを与えてくれる。
この言葉には救われました。

(こういうことを、「人間力」と言うのですな)



この葛藤もいつか一つになることを信じて、今日も悩みながらやっていけばいいのかな。

2010年9月28日火曜日

24歳はアフリカで。

今日(9/27)は自分の誕生日、まさか24年前にアフリカで迎えることになろうとは誰も思っていなかったでしょう。はるばる日本やインドネシア、中国、マレーシアなどからメッセージ、ありがとうございました。

こちら、モザンビークでは、孤児院の子どもたちにケーキを買っていきました。(そう、モザンビークでは誕生日を迎えた人がパーティーを主催、準備するのです。)
40人分のケーキはさすがな値段なので、どう準備しようか迷いましたが、
親戚や家族と暮らしていない孤児院の子どもたちは誕生日会に呼ばれることもなく、ケーキもめったに食べられないので、ここは奮発して全員分足りるような大きなケーキを近所のおばちゃんに頼んで作ってもらいました。(日本円で3000円、15000円ぐらいの実感です。高っ!)
これがそのケーキの写真!中身はチョコレートとオレンジの2段作りです。

風船も買ってきて飾りつけ、準備完了。ケーキを見た子どもたちはたちまち大興奮!

こっちでは誕生日を迎えた人がケーキ入刀、



まずは自分が食べて、


小さな女の子がめっちゃ食べたそうです。笑
そのあとはみんなに配分。



ゆっくり、噛み締めるように食べていました。
子どもたちもこっそりカードを用意してくれていて!!貴重なノートのページを破ったり、わざわざ友達に色鉛筆を借りたり、どこで見つけてきたのか、封筒の中に5円を入れてくれる子までいて、これぞ教育者の幸せです。


一つ複雑なことを言うと、僕はお金持ちなのでこうしたケーキを用意できますが、2週間後に誕生日を迎える同僚にはそのお金はありません。だから彼女のときはケーキなしで歌とカードだけになってしまいます。(僕も、全員の職員分準備するお金はありません。)そういう時、モザンビーク人がどういう気持ちになるのかはまだわかりませんが、もしかしたらなんとなく不公平だったり嫉妬を感じさせてしまったかもしれません・・・。
もう一つ、孤児院の子どもたちの誕生日も祝いたいのだけれど、彼らは自分の誕生日を知らないことが多く、それもできないのです。

少なくとも、今日のちょっとのケーキが、少しでもみんなの思い出に残りますように!



P.S.すばらしいセンスを感じる、子どもが描いてくれた僕の似顔絵。笑

どこで何をしているのか

先月から配属先での活動が始まりました。
(協力隊では、自分たちが働くところを配属先と呼びます。公共機関や学校、NGOが多いです。)



僕が働くのは、公立の孤児院。40人弱の、家族と一緒に住むことができない子どもの面倒をみている施設です。子供は2歳から18歳まで、ほとんど男子ですが、女の子も10人くらいいます。両親をなくしてしまった子、両親はいてもお金がなくて育てられない子、親元から逃げてきた子、迷子になって親とはぐれた子、障害があるために家族から見捨てられた子どもたちなどが生活しています。

迷子がいるっていうことに驚いたかもしれませんが、30%ぐらいの子が迷子で来ています。親が仕事を求めて中心地まで来たんだけれど、慣れない移動で子どもとはぐれてしまう。さらにこっちでは警察の機能が弱いために自分の子供がどこに預けられているのかわからない、どこに預けられているかわかってもひきとりにいく交通費がない、孤児院の存在を知らず、道で暮らしていると思っているため迎えに来ない、などの要因で子どもは孤児院での生活を余儀なくされています・・・。親は携帯電話を持っていないことが多く、子どもも番号を知らないので連絡のとりようもないんです。

大半の子供たちは、孤児院から近くの学校に通っていますが、全寮制の学校に入り、夏休みだけ孤児院に戻ってくる子なんかもいれば、学校が嫌いで行かなかったり、学期の途中に孤児院に来たために学校に行っていない子どももいます。

職員は約10名。校長先生、予算管理係、教育係、警備係、料理係など。そのなかで僕は2人の教育係の同僚と一緒に、子供たちの教育を担当しています。

公立の孤児院なので、とにかくお金がありません。
子供たちは靴をはいていないし、ぼろぼろにやぶれた服を着ています。子供用の小さなベッドに2-3人が寝る状態。食事は白米と魚、鶏肉、野菜などあるようですが、僕がみたときは魚といっても魚の頭の一部だけ。魚肉は入っていませんでした…。教科書は持っていないし、ノートも十分にはありません。ある中学生の子は自分の服を売ってノートを買ったと言っていました。


遊び道具はサッカーボールが一つ。みんな、コーラのビンのキャップとか、石で遊んでいます。

40人も子供がいると、うるさくてにぎやかかと思うかもしれませんが、一緒に遊んでいない限り、どことなく寂しい雰囲気です。


それから驚いたことは、子供たちには「大人と遊ぶ」という考えがないこと。日本だったら学校に20代のお兄さん・お姉さんが遊びに来たら一緒に遊ぼうと寄ってくると思うのですが、こっちの教育係のお姉さんたちは厳しく子供を叱っていて一緒に遊んだりはしないようなので、子供もそもそも「大人は自分たちをしつける人たち」だと思っていて、一緒に遊ぶ人たちとは思っていません。

ここでの僕への要請内容は、孤児院の生活をもっと楽しいものにすること、子供たちが孤児院を出ても自立できるような学力、生活力を身につけるようにすることです。

はじめのうちは子供の名前を覚えたり、教育係のお姉さんたち二人と一緒にモザンビークや日本の遊びを一緒にやっていました。
現状は複雑ですが、その分強いやりがいを感じます。
少しでも何かを変えられる希望を持って!

2010年9月5日日曜日

アフリカのプロが残したコトバ。

協力隊員が派遣されているすべての国に「ボランティア調整員」という方がいて、
僕らの仕事、生活を支えてくださっている。
現地でボランティアの必要性を調査し、日本にボランティアの要請を出すところか
はじまり、僕らが到着してからも安全対策、住居の確保や配属先との面談など、
すべてをサポートしてくださる存在である。

8月に、大変お世話になっていた二人の調整員の方が日本に帰国された。
一人の方は僕らの受け入れ担当の方で、本当に優しく、隊員誰からも人気のあった方だった。

もう一人の方はアフリカでの勤務暦も長く、その有能さで有名だった「アフリカのプロ」。

その方が、帰る際に新隊員に向けて送ったメールの一部。

***

それぞれの任地へ赴任され、これから二年間いろいろな苦労 や楽しみがあるでしょう。
面白いなあと感じる人は世界が広がるでしょうが、
不平ばかり言っている人は苦労ばかりの二年間になるでしょう。
物事はすべて自分の考え方次第です。
 
モザンビークは歴史的にも文化的にもたいへん興味深い国です。
長い長い差別の歴史とお互いを殺しあう内戦の悲劇という歴史を持つ モザンビーク。
皆さんがそれぞれの場所でモザンビークに深く関わり大いに学ばれる ことを期待しています。
 
***

その方の考え方がぎゅっと詰まった文章なぁ、と思った。

彼女はバリバリ仕事や交渉を進めながらも、絶対に笑顔や楽しむ心は忘れず、
本当にここでの生活を満喫して、楽しんでいらしたなぁと思い出した。

2年間での一番大切な心構えを、たった1ヶ月の間でも十分教えてもらった気がします。
本当にありがとうございました。

首都で起こった暴動

久しぶりの更新になってしまいました・・・。
首都から任地まで移動し、インターネットの会社を一生懸命働かせ、
ようやく先週から家にネットが入りました。
実はモザンビークの首都で先週、大規模なデモが発生し、
隊員は自宅待機の支持を受けていました。
近年、モザンビークの政情は安定していると聞いていたし、
実際にここで暮らしていても政情不安は感じないので、
このニュースを聞いて、テレビで暴動の様子を見た際には正直驚きました。

いったい何が起こったのかというと・・・
(情報・写真は Wall Street Jarnal, Financial Times, Noticias より thanks Mr.Y!)

�デモの状況


9/1-9/2に、モザンビークの首都マプトで発生した暴動が発生し、
市民は暴徒化し、車に火をつけたり、店を壊して物を盗んだり、投石を行った。

警察はゴム弾を打って暴動を抑えようとしたものの、
途中から銃弾を使うようになり、7名の死者と280名の負傷者が出た。
政府によれば、経済的な被害額は400万円ほど。

現在は暴動は首都では収束状況にあるが、地方都市に今後波及する可能性がある。

�暴動の直接の背景(食料、石油価格の上昇)

モザンビークでは、政府がパンの価格を約30%上昇させることを宣言しました。
ちょうど9月から価格が上がることになっており、それをうけて9月1日に暴動が行われた模様です。
パンに限らず、食料価格の上昇は世界的に深刻で、国連食料計画によれば、食料価格は昨年に比べて16%上昇しているそうです。
世界的な食料価格上昇の大きな要因となっているのは、ロシアで深刻な干ばつが発生し、穀物の輸出規制を1年間延長したことや、
オーストラリアでの異常気象だそうです。
さらに食料価格だけではなく、アフリカ諸国では2ヶ月で石油価格が3倍に上昇し、交通手段のコストが上昇しています。

食料価格の上昇

�モザンビーク人にたまっていた不満

食料価格の上昇という、直接的な背景に加えて、市民へのテレビインタビューを見ていると
政府に対してさまざまな不満があることがわかります。
欧米の新聞によれば、以下の2つの理由がが国民の不満を大きくさせているようです。

*モザンビークでは年率7%の経済成長を達成したが、
それらは一部の大資本によるプロジェクトの成長であり、
多くの国民は成長の恩恵を受けていない

*モザンビークでは単独政党が長期にわたり政権運営しているため、国民の不満のはけ口がなく、こうした行為にあらわれやすい。

僕の職場は政府機関なので、執務室には大統領の写真が飾ってありますが、
それでも職場の同僚は「政府は国民のことを全然わかっていないから食料価格を上げるんだ。そしてそのお金は自分たちのポケットの中に入るんだ」
とぐちっていました。
(いろんな人に聞いてみましたが、ロシアやオーストラリアの状況が背景にあることを知っている人は誰一人いませんでした。)

2008の食料価格上昇時にもデモが世界各地で発生したが、
こうしたデモは政権の軍事化を促進したそうです。
しかも明日には僕の住んでいる町でのデモが計画されているとか・・。

高い教育を受けている僕の上司は
「ああいうデモは何も問題を解決しない。火をつけて車を壊していたけれど、
その車を修理するお金は結局政府が出すことになって、ほかの事に使えなくなる。
あんな暴動にはうんざりだよ」
と、デモを嘆いていましたが、
こうして冷静に考えられる人が増えたらああいうことにはならないんだろうなと、
少し日本を思い出しました。


2010年7月24日土曜日

その後。

この前の日記に、コメントやメールをたくさんありがとうございました。
日本語が読みづらいらしいです、すみません。
(ブログを誰に書いたらいいかわからないんだって。笑)
モザンビークにいる日本人は約100人、任地の都市には2名しかいませんが、
インターネットでこうしてすぐ日本の友人から
励ましの言葉をもらえることはめっちゃありがたいです!

***

お金が盗まれていることが発覚した次の日、
子供たちとお母さんに、そのことを伝えました。

"Alguém roubou o meu dinheiro, quando eu tomo banho."
(誰かが、僕が風呂に入っている間に、僕のお金を盗んだんだ。)

子供たちは一瞬驚いた表情をしていたけれど、
「Verdade? Vou falar com vovo」
(ほんとに!?おばあちゃんに話してみる)
と言ったっきり、ほかの事に話題を逸らします。

おばあちゃんにもその後個別に伝えると、
これが大変で...

"Você acha que tem a ladrão na minha casa!?!?!!!"
(あなたは、うちのなかに泥棒がいるって思ってるの?!!)

あなたのためにどれだけ安全に気をつかってきたか、
私がどれだけ人のお金を大切にするか知ってるか?、
なんであなたは私たちを信用しない??、
そうよ、あなたの友達が盗んだんじゃないの??
私はショックだわ・・・

とすごい勢いで反論されます...
というか、逆に怒られてます、もはや。
直感的におばあちゃんは何も知らないなとわかりましたが、こっちも、

「あなたがやったなんて言ってないでしょ。
それでも絶対に家のひとがやったとしか考えられない、
ちゃんとお金は数えたし、僕だってとても悲しい」

と、つたないポルトガル語で伝えました。
もともと人との間に揉め事を起こすことを激しく嫌う性格なので、
こんなに人と言い合ったのも小学生以来です。

散々言い合った後はお互い黙り込み、
僕も部屋に戻りましたが、
10分後におばあちゃんがやってきて、

「いくら盗まれたの?私が払うから。
あの子達が帰ったら、子供と話すわ」
とさびしそうな顔で伝えに来てくれました。

きっと、中学生の孫がやった、子供の好奇心だったんでしょう。。
彼は自分がやったという告白とか、あやまることはしてくれないのでわからない
のですが...
あの日以来、僕が自分の部屋から出ているときに、
おばあちゃんの目から離れたところにいることができなくなり、
おばあちゃんも申し訳ないのか、疑った僕に怒っているのか、
ほとんど会話をしなくなって、
家からは笑い声が一切消えて、
数日は一人で沈黙のなか、ご飯を食べてました。

***

「盗まれた額が少ない額だからといって、気にしない素振りをしていたら、
日本人も自分も馬鹿にされる。
たしかに家族はやさしかったし、楽しかったけど、
彼らが笑ってたのは僕からお金をとってたからかもしれない。」
と思うと、今までの感謝も消えて、しばらくはこっちも怒った様子でいようと
思ってました。

そのときに、一人の日本人の友達から、
「その気持ちはわかるけど、今までの感謝はちゃんと伝えたほうがいいと思うよ。
お世話になってたのは事実なんでしょ?」
って言われて、
それからなんか急にさびしくなったホームステイも、
このまま終わるのがいやになって、
なんとかしたいなぁ~と思い、

ずっと怒りっぱなしでいる必要もないなと思って、

彼らにちょっとでもすれ違ったときは前みたいに、笑顔で挨拶するように変えま
した。
食事のあとには「ありがとう」と、おばあちゃんの部屋の外からだけど声をかけ
るようにして、
なんとか関係の修復をはかっていました。

3日経った今日、久しぶりに自分の部屋に子供が遊びに来てくれたり、
おばあちゃんも大きな声で朝起こしに来てくれて、
久々のこの感覚に、ほっとしました。

こっそり準備していたお礼のカード、
一度はこんなもん絶対渡すかと思ってましたが、
やっぱり感謝は伝えようと思えるようになって。

***

この前会ったモザンビークでの先輩が話してたこと。

「俺はなんかあったら、おもいっきり人と向き合って、
首根っこのつかみあいになるくらいまで、本気でやりあう。
アフリカ人だからといって怒るのをあきらめるのは失礼だと思う。」

本気で向き合うことは面倒くさくて、
勇気がいて、リスクもある行為だと思いますが、
■人と本気で向かい合うこと
■人の失敗、自分の失敗を許しあえるような人間関係を築くこと
は、こっちでアフリカを感じるためにも自分に課す目標です。

2010年7月20日火曜日

アフリカの闇の幕開け。



朝6:00に起きて、部屋の窓を開けると
マプトの街の後ろから太陽が昇ってくるのが見える。
そんな毎日のスタートが大好きだったのに、
今日の朝は曇っていて、なんか悪い予感がした。

今朝、ホームステイ先の人からお金を盗まれてることがわかった。
昨日から怪しいと思って、今朝はシャワーを浴びる前に
ちゃんと数えといて、わざと自分の部屋の机の上においておいたら、
案の定、合鍵を使って扉を開け、お金をとったあとがあった。
とられた額は日本円にして120円、ジュースが10本買えるぐらいのお金。
家の誰がやった仕業かわからないけど、
きっとおばあちゃんと孫二人、みんな知ってるような気がする。
3人は生活を一緒にしているから・・・。
いつから彼らがそうしてたのかわからない。
いくら盗られたかも性格には把握していない。


前から、お金が足りないだとはよく言われてたし、
子供の食事をみても裕福じゃなかったけれど、
よく子供たちは部屋に来て一緒に遊んだり、
おばあちゃんからも「オオクボっていう苗字のほかに、わたしたちの苗字もあげるわ!」
なんて毎日言われていて、笑いが絶えない感じで暮らしてた。

ホームステイもあと一週間ってところで、
あんたたちにお金を盗まれたことを気づいたことを伝えないといけないし、
もう彼らと笑顔で話す気もしない。
お礼のカードも作ろうかと思ってたけど、いいや。

「こっちではよくあることだから、シャワーを浴びるときにも貴重品を持っていきなさい」
とJICAの人には言われた。
そう、こっちではよくあることらしい。

こっちに来てから快適に感じることが多くて、
アフリカに来ているような感じがしなかったけれど、
今日はじめて、「アフリカでの生活」が幕を開けた感じがした。

直接、盗みをした家族と向き合わなくてはいけないのではなくて、
人をこうやって変えていく、アフリカにある魔力みたいな力と、
向き合わされることになるのかな…

2010年7月15日木曜日

運に左右される社会

任地調査など

今は首都のマプトで語学の勉強をしていますが、
先週末は、実際に働くことになる孤児院があるナンプラという都市まで
行ってきました。
ナンプラはマプトから北部に1000キロ離れたところにあり、
飛行機で2時間かかります。
それでもモザンビーク第3の都市といわれるだけあって
首都から離れていても生活の物資などは整うし、
レストランなどもあります。

それでも、首都とそのほかの街との差は激しい!!
マプトは、もはやアフリカの街ではないみたいで、
ベンツは走るわ、
おしゃれなスポーツバーはあるわ、
インターネットが無線でとんでいるわ、
ショッピングセンターがあるわ、
映画館もあって、
僕が日本で想像していたアフリカとはまったく違うところでした。

ナンプラに行くと、映画館があると聞いてみたので行ってみると、
会議室みたいな部屋にいすが並んでいるだけ。
どうやら映画のときは後ろのプロジェクターから
映像を映すそうです・・・!

大きな都市からも、シャパといわれる乗り合いバスにのって
30分もすれば田舎の雰囲気にがらっとかわります。
迷路のように入り組んだ小さな小屋のような家にみんな住んでいて、
火は石炭を使い、庭にはニワトリを飼って、
お風呂は水かお湯を浴びるような生活。
この差は激しいものがあります。

差が激しいと、どうなるか??

「運」

によって決まることが増えたと思います。
おなじ協力隊の仲間でも、
ホームステイ先の家のレベルはさまざま。
プレステ3がある家もあれば、電気がつかない家もあり、
それぞれの自宅も、庭付きの一軒家もあれば、
ワンルームに小さな窓しかない家も・・。
隊員の境遇を合わせようとしても
なかなかあわせられないのだから、
現地の人の「運」に左右される度合いはもっと激しいでしょう。
生まれた家、場所、行った学校・・・、
僕らは2年間でも、現地の人にとっては一生が本当にそれで決まるのです。
そして、運で決まることが多い場所ほど、
自分の努力で何かを変えようとする意欲は出にくくなっていくと思います。

モザンビーク人に対して、
「働く意欲ややる気がない」って
よく聞きますが、その背景にはこの社会格差も関係しているのでしょう。

2010年7月3日土曜日

「貧しい」ということ

先週からホームステイと現地での語学訓練がはじまりました。
僕のホームステイ先はおばあちゃんと孫二人が住んでいる家で、
モザンビークの大きなとおりに面した3階にあります。
どこの家も中は結構綺麗で、
本当に日本のようなリビングやベッド、ソファ、テレビがありました。
ほかの同期隊員たちの中には、プレステ3がある家も!
だいたいの家で家政婦さんを雇っている生活で、
JICAの隊員が泊まっているからということもあるけれど、
みんなの感想は思ったよりも日本と近い生活をしているな、という感じです。
ただ、肝心のトイレに紙がなくて、もう覚悟を決めて、紙なしで用を足していま
す・・・
Opa!

日本との違いは、
・いろんな人が出入りしたり泊まること
(両親は別のところに住んだり、こっちにきたり、
妹が住んでたり、家族の形態がいろいろです)
そして、

・めっちゃ子供が働くこと!!

朝パンを買いに行くのも、
料理を準備するのも、
洗濯も、掃除も、
おばあちゃんがのど渇いたときも、
「お水とってきなさい!」
<こどもが召使のように使われている>
これはどこの家庭でもそのようです。

孫たちが兄弟げんかをしていたり、
おばあちゃんが「あんたたち学校あるんだから早く寝なさい」と言ったり、
「電気は消す!」ってどなるところあたりは
どの国でもいっしょなんだなぁと実感。

ただ、日常生活のなかでも貧しいことを感じることはあり、
昨日も「あんたはお金があるんだから水を買ってきなさい。
水道水は体に悪いの。でも私たちはしょうがないからこれを飲むけどね...」
といわれ、
たしかにその後、孫たちはコップに水道水を汲んで飲んでいました。
目の前でその水道水の水を飲んでいるのを見ると、
どうしたらいいのかわからなくなります・・。

何かをすることが、自分の健康とか将来に悪いとわかっていても、
それ以外の選択肢を取れなくて、妥協しないといけないこと。

自分の可能性を開くような選択肢をとれないこと。

それが貧しいっていうことなんかなぁと思わされました。

来週も語学訓練がつづき、
週末にはいよいよ任地まで飛行機で一度訪問します。
どんな孤児院なのか、早く見たい気持ちでいっぱいです。

2010年6月26日土曜日

岡田監督のアタマの中

土日は研修なども休みで、
新しくきた僕らはまだ一人で外を歩くのは危険なので、
近くの市場に仲間や先輩と行ったり、
近くの公園に行くのが精一杯です。
寮ではインターネットが平日は夜間から早朝、
土日は1日中使えるのでSkypeを使ってほかの国に旅立った仲間と
連絡をとったりしています。

インターネットでアフリカにいる岡田監督の講演を読んで
強く感銘を受けたので引用します。
ほかの部分もおススメです。
http://bizmakoto.jp/makoto/articles/0912/14/news010_7.html
人に好かれようとしているだけでは何もできないということ、
それを覚悟のうえで、勝ちに挑む姿勢から学ぶところがたくさんありました。
現地の人、みんなに好かれたい気持ちはあるけれども、
何かをしようとしたら決断をしなくてはいけなくて、
嫌われることもあるかもしれない。
でもそのとき嫌われても、あとからその人たちまで納得するような結果や信念を
追い求めなければならない、
いまの岡田監督はまさにそれを実現したように思います。

引用部分は挑戦することの大事さと、
短期的に結果を判断しない大事さを説いています。

(以下、引用)

人間万事塞翁が馬

僕は色紙などに「座右の銘を書いてくれ」と頼まれたら、大体“人間万事塞翁が馬”という言葉を書くんです。ご存じでしょうが、中国の城塞におじいさんがいて馬を飼っていたと。馬は当時貴重なものだったのですが逃げてしまった。周りの人が「おじいさん、大変な災いでしたね」と言ったら、おじいさんが淡々と「いやいや何を言う。この災いがどういう福をもたらすか分からん」と言っていたら、逃げた馬が雌馬を連れて帰って財産が2倍になった。

 「おじいさん、良かったですね」と周りの人が言ったら、おじいさんが淡々と「いやいや、この福がどういう災いをもたらすか分からん」と答えたら、連れてきた馬に乗った息子が落馬して足を悪くした。「いやあ災難でしたね、おじいさん」と周りの人が言うと、またおじいさんは「いやいや、この災いがどういう福をもたらすか分からん」と。そして、戦争が始まって、村中の若者が駆り出されて全員戦死したのですが、その息子は足を悪くしていたので、戦争に行かずに生き残ったというように話が続きます。

 僕は「バーレーンに負けなかったら、どうなっていたんだろう」「ウルグアイに負けなかったら、どうなっていたんだろう」といろいろなことを今思います。そういうことが続いてくると、何か問題やピンチが起こった時に「これはひょっとしたら何かまたいいことが来るんじゃないか」と勝手に思うようになるんです。もうすぐ発表になりますが、今回もスケジュールで大変になることがまたあるんです。それは確かに大変かもしれない。でも、「ひょっとしたらこれでまた何か良いことが生まれるんじゃないか。強くなるんじゃないか」とだんだん考えるようになってくるんです。

 ずっと振り返ってみると常にそういう連続でした。「バーレーンに負けたおかげで今がある」と思います。そして、ふと自分の手元を見てみたら、僕がずっと探し求めていた秘密の鍵があったんです。これは秘密の鍵ですからお話しできませんけどね。秘密ですから(笑)。恐らく僕があの後、どれだけ机の上で勉強してもつかめなかっただろう秘密の鍵が、のた打ち回りながらでもトライしていたら、手の上に自然と乗っていたんです。

 僕はその時にふと「淵黙雷声(へんもくらいせい)」という言葉を思い出しました。僕は曹洞宗で座禅をするので総本山の永平寺に行った時、宮崎(奕保)※さんという禅師さんに謁見する部屋の掛け軸に書いてあった言葉です。弟子がお釈迦さんに「悟りとはどういうものなんですか?」と聞いたら、深く黙した(淵黙)。しかし、その淵黙が雷のような大きな声を発したように聞こえたと。お釈迦さんは「ここにいて悟りがどうのこうのと能書きを垂れているくらいなら、修行して一歩でも悟りに近づくように踏み出しなさい」ということを無言で伝えたんです。僕はその言葉を思い出しました。自分はああだこうだと頭で考えたり勉強したりしましたが、よく言われる「ともかくやってみろ」「ともかく始めてみろ」ということは本当なんだなという気がしました。
※宮崎奕保(みやざき・えきほ)……曹洞宗大本山永平寺第78世貫首。2008 年逝去。

 時間の関係で中途半端な話になりましたが、何が言いたかったかというと、若い人にこれからチャレンジをしてもらいたいということです。「いやあ、今はこんなことやったって……」といった能書きはいい。ともかく一歩踏み出して、どんなことでもいいから目標を作ってチャレンジをする。

 僕はいろんな決断をする時に、「明日死ぬとしたら今どうするだろう」と自分を追い込みます。人生というのは「おぎゃー」と生まれてから、必ず来る死というものに一歩一歩進んでいくだけなんです。僕なんかはもう半分以上進んでいるんですけどね。誰もが必ず死ぬんです。この講演の帰りにポロッと死ぬ人もいるかもしれない。その間をいかに生きるかなんですよ。何もなく、のほほんと生きていくのも人生です。「生きているだけですばらしいこと」とよく言います、その通りです。

 でも、できるならどんな小さなことでもいいから、チャレンジをしてもらいたい。頭でごちゃごちゃ考える前に踏み出してみる。少々壁や何かがあろうが、そんなもの関係ない。必ず乗り越えられる。壁というのは邪魔をするためにあるのではない。自分の気持ちを確認されているんです。「本気でこいつはやってんのかどうか」と。そういうつもりでチャレンジに一歩踏み出していただければ幸いです。

モザンビーク到着!

2010年6月23日、モザンビークに到着しました!
日本からは香港まで行ったあと、W杯開催中の南アフリカを経由して
モザンビークの首都マプトに着きます。
飛行機3便、合計して20時間弱の移動でした・・・。

南アフリカまでは日本のサポーターの方も何人かいて、
南アフリカの空港でもブブゼラを売っている店もあり、
ワールドカップの盛り上がりを実感!
ちなみに昨日の日本vsデンマーク戦は、
僕らが泊まっている寮のラウンジに
テレビをプロジェクターで写してみんなで観戦してました。

モザンビークに到着した最初の感想は涼しいこと!
アフリカの暑いイメージをしていたら、
現地は朝晩は10℃近くまで下がり、昼間でも25℃くらいまでしか上がらず、
涼しい風が吹くのでとても気持ちいいです。

今は首都に仲間20人と一緒に生活していますが、
周りは高級住宅街で、ベンツの車なんかがとまっている豪邸もあります。
綺麗な碧い海も歩いてすぐの距離にあって、「ここが最貧国なの???」
と思うような環境です。

そんな高級住宅街でも、外国人を狙った犯罪が相次いでいるため、
気軽に海岸を散歩することはできず、
必ず「日中」に「複数」で「周囲に警戒しながら」歩くよう、注意されています。
ゴミをあさっているストリートチルドレンの子がいたり、
若い失業者も街にいますが、
そういう、モザンビークの中でも貧しい人には
外国人は「お金を持っている」と思われていることもあり、
近づいて話すことはおろか、目を合わせることもまだできません。
せっかくモザンビークに来たんだから、
最貧困層の人たちの気持ちとか生活を知りたいのですが、
それにはまだまだ時間と現地の仲間、勇気が必要そうです。
(そう、「現場を知る」というのはなかなか難しいことなのです!)

相手の言うことが聞き取れないので会話をするのがおっくうになりそうですが、
そこは失敗を気にしない強気の精神で、よりたくさんの人と話そうと思います。

ブログを書くのにまったく慣れない・・・
なぜか文体がですます調になるし。笑
しばらくは試行錯誤で!
あと、愛しのカメラを東京から持ってくるのを忘れてしまったので、
こっちでカメラが手に入ったら写真もアップロードします...

2010年6月22日火曜日

行ってきます!

明日から2年間、みんなのそばを離れることになります。

青年海外協力隊として2年間、アフリカのモザンビークという国に行ってきます。
(一番左の写真が地図で、真ん中がモザンビークの海です!)
現地では、虐待を受けたり、家族によって育児されなかった孤児38名と生活します。
彼らは元気にたくましく生きているだろうけれど、
少しでも、もっと彼らの生活が楽しくなったり、明るくなったり、
自分に自信を持てるようなことができたらいいなと思っています。

4月からの2ヶ月間は、写真の先生と、
203人の協力隊の仲間と一緒に、福島県で合宿の研修をしていました。
いままでぜんぜん違う道を歩んできた皆だったけど、
楽しくて尊敬できる人が多くて、毎日が爆笑と学びの連続で...
つい最近会ったばかりなのに、もうすでに自分を支えてくれる存在です

合宿が終わって東京にいた一週間、
たくさんの人が出国前に集まってくれて、壮行会を開いてくれたり、
メッセージやメールを送ってくれました。
僕は人のイイトコロをパクるのが得意だと思っているんだけれど、
みんなのいいところをたくさん見て、
どんなに自分が周りの人から作られてるかを実感しました
感謝しつくしてもしきれません。本当にありがとう!!!
もらったものはすべてパッキングしました

自分で選んだ道なんだから、真っ直ぐ強く、笑顔で行きたいけれど、
そんなに強い人間でもありませんでした

どんなに2年間の生活が楽しみでも、
協力隊の仲間の健康と安全は不安になってしまうし、
まだまだ会いたかったのに会えなかった人はたくさんいて、
そんな皆の表情を思い浮かべるたびに寂しくなります。

「なんでそんなに人生を台無しにする選択をしたの??」
「日本人が行っても何もできないでしょ。」
と言ってくれることのありがたさは知りながらも、
自分の選択への不安におびえることもあります。

何より、自分の一番身近にいてくれて、自分を支え続けてくれた人に
一番寂しくて辛い思いをさせて、
何かあったときにもすぐに駆けつけられないことは
一番辛いことです...


そんな悲しさとか寂しさがあっても、
きっとモザンビークで笑顔で活動できるのは、
みんながそれぞれ心のなかにいて、
体の中にもう入ってて、
僕のエネルギーになってくれるからだと思います

心の中に支えがあるといろんなことに挑戦できることは
23年間を通じてみんなに学ばせてもらいました。
だから、一緒に生活する子供たちにとっても、そんな支えになって、
彼らの挑戦を後押しできるような先生でいたいなと思います。

向こうでインターネットがあれば、ブログも更新する予定です。
http://tomoji-in-mozambique.blogspot.com/


2年後に、みんなの前に進んでいく話を聞くのも楽しみだけれど、
とにかくまずは元気で笑っている皆に会いたいです。
See you Again!!